Apes 凡論

文章練習をオフラインでやるより、公開していこうと思い立ち始めました。なので、感想、ご指摘など遠慮なく。

文章練習2 コロナウイルスと安心

2019年末、中国は武漢で始まった新型コロナウイルス。正式名称COVID-19は次の十年に向けた、2010年代最後の置き土産あるいはイタチの最後っ屁なのだろうか。

いま世界は2020年代に突入し、4ヶ月が経とうとしているが、晴れ晴れとした新たな10年間の幕開けとは全く呼べない。経済活動は停止し、オリンピックを含む各種イベントは延期、国民は家にいるよう指示された。世界は恐怖と不安とウイルスがそこかしこに蔓延している。ほんの少し前、「ワンチーム」が流行語になったので、今回のコロナではてっきり、人々は互いに身を寄せ合い、支えあうかと思っていたが、他人への心配よりも自分のケツの穴を優先し、トイレットペーパーをボールに見立て、レジまでトライと言わんばかりに奮闘している。

無症状患者が外出すれば、故意の有無に関係なく感染を広めるため人々は距離を置き、僕を含め、明日は我が身かと恐れている。

安心なんてほど遠い。ふと、安心とはなにかと辞書を引く。

安心とは「気にかかることがなく心が落ち着いていること。またはそのさま。」

「仏法の功徳によって、迷いがなくなった安らぎの境地」とある。つまりは我々が普段口にする「安心」とはいわば、ジェットコースターが真っ逆さまに滑り落ち、次の高所へ向かう間の、ほんの束の間の時間であり、人生において辞書の意味する本当の「安心」を得られる日など、釈迦にでもならぬ限りは訪れない。そう断言されたような気がする。

釈迦の悟りの境地は、端的に言えば「苦楽どんなことであろうとも動じない」

楽しかろうが、苦しかろうが同じ感情でいることなのかと想像する。それは、とてもたどり着けそうもない立派な境地だと思う反面、その状態は人間なんだろうかと疑問にも思う。人生とは何かを論じたい訳ではないが、楽しいこと、苦しいこと、それらを全身に受け止め、笑みや涙をこぼすほうが美しく思えるのは、私だけだろうか?

いつでもポジティブな人間などいないし、いたらそれは阿呆だろう。

ネガティブなのもよくはない。要は適当こそが適当ではあるが、中道でありながらも少しばかり悲観的な方が人生の危機に上手く対処できると今のところ思っている。

今後の経済も、私の人生も先行きは不安だ。不安だからといって、沈み行く船に乗船していたとしても、ただ茫然として眺めるだけで何もせず、船と共に沈むのだけは避けたい。船から抜け出すことを考え、抜け出せた後には沈まない船に乗船するか、二度と船に乗らぬようにしようと考えるだろう。その行動は「気にかかることがなく心が落ち着いていること」つまりは安心を追い求めての行動他ならない。しかし、先に述べたように「安心」を得るに至るまでは苦難の連続であろう。安心を追い求める道中の苦楽に、一喜一憂を全身全霊で味わい、安心を追い求めれば、いつかは死ぬ。これでいいんじゃなかろうか。これこそ人間らしい、愚かな、それでいて美しい姿だと私は考える。

安心を追うことに執着し、あらゆる苦難に打ちひしがれ、なにもかもを捨て去り、追うことを諦めたその先は、苦しいことも、楽しいことも何が起きても動じない、クールでいて、それでいて空虚な人間らしくない姿があるのではないか。その境地を人は悟りと呼び、その状態を安心と呼ぶのではないのだろうか。

人間は動物的本能と、人間的理性が混在し生きている。従って、人間を離れる。人間を超越するとは、動物でいるか、悟りを開いた超人でいるかそのどちらかだろうか?

今の意見を表明すると、私は動物側でありたい。私は愚かなサルがいい。