Apes 凡論

文章練習をオフラインでやるより、公開していこうと思い立ち始めました。なので、感想、ご指摘など遠慮なく。

文章練習7 この先について

生まれた頃にはソ連ベルリンの壁も既になく、
9.11、イラン・イラク戦争が起きたときも、物心なんてあったか無かったか。
東日本大震災だって、関西に住んでいた僕にとってはどこか遠い国のお話のように思えた。
社会科、とりわけ歴史が大好きだった僕はどこか心の中で教科書に載るような歴史的出来事と、自分の人生がふっと重なり合うのを望んでいたのかもしれない。
ポッカリと空いた歴史の狭間で、失われた20年と呼ばれる時代と共に歳を重ね、大学を辞めた後もモラトリアムに囚われて、社会の扉を叩きあぐねいている中で、あまりにも突然訪れたコロナウイルス
こんなちっぽけな目に見えない存在がここまで大きく社会を揺るがすなんて、思いもしなかった。

常に抱え込んできた競争社会に対する疑問符、大量消費・大量生産社会に対する違和感。
適応できなかった、学校という名の資本主義訓練校。

この先に対する漠然とした不安と期待が、桜が散ると同時に僕の中で芽生えた。

表現練習1

京福電鉄、通称「嵐電」の愛称で有名なそのワンマン列車は西側の終点である「嵐山駅」に到着した。
茶色を基調とし、淑女の首飾りのような落ち着いた銀枠の紋様が、車両の窓枠の上下部分を彩るように描かれている。どこか明治〜大正期を想起させるレトロモダンなデザインだ。
車両上部に取り付けられた行先標に目をやると、既に東側の終点である「四条大宮」と表示されていた。
下側に取りつけられた赤い丸々としたランプが両端に取り付けられ、その赤ランプの左側には「映画村」と書かれ、すげ笠をかぶり、かちん太と命名されたマスコットキャラのカラスが丸い形をした看板に、けだるい目をしながら右手をあげて描かれている。右側に目をやると、楕円形をしたこれもまたレトロな色合いの金枠に、背景は黒色で、金枠と同色で27と数字が中に書かれている。これは車体番号であろうか。
その車両を観察しているうちに発車時刻が訪れて、東へ続く真っ直ぐな線路の上をゆっくりと電車は走りだした。だんだんと電車は遠くへ行けば行くほど、小さく小さくなって、いつの間にか私の視界から消えていった。再び誰かを乗せ、ここ嵐山へと誘うのであろう。





文章練習6 犬の話

我が家では1匹犬を飼っている。雑種の小型犬のメスで、何年か前に両親が保護犬を施設から引き取って以来我が家にいる。私はしばらく実家を離れ過ごしていたため、帰郷のタイミングでそれを知り、犬と初対面を果たした。
前々から多少話には聞いていたが、この犬は保護される前、捨て犬何匹かで群れをなして過ごしていたところを保護されたそうだ。その経験の中で酷い扱いを受けたのか、とても臆病で警戒心が強い。餌を食べるにしても少量を口に含んで、少し離れた頃へ持って行き、そこでやっと食べる。その習慣は今でも抜ける事がない。

そんな我が家の犬と私が初対面をした時は散々であった。
私が生来、10年以上過ごしてきた実家なのにも関わらず、私がいない間にやって来た犬は私を見るなり新参の不審者扱いをした。吠え散らかし、荒れ狂い、そして私を恐れながらも軽蔑した目でこちらを見る。あまりにもそれがこの犬の過去を鑑みると不憫に思えたので、何日もかけて少しずつ餌を与えたり、仲良くなろうとアプローチをかけ続けた。
次第に犬は私が撫でることを許し、近づいてもそこまで嫌がらなくなった。私の努力は報われたかに思えた。
現実は酷だ。どうやら犬のその態度を見ると、私は餌を与えさせていただき、撫でさせていただいているように思える態度なのである。
私は当時こう思った、「この犬はなんだ」と。

私は犬に限らず、動物は全般的に好きである。しかしながら、私は犬に対して多少のステレオタイプ固定観念があった。主人の帰宅を知ると留守番をしていた犬はすぐさま、主人のもとへ向かい尻尾を振り、この世の春がきたと言わんばかりに喜ぶ。
犬の名を呼べばそれはもう、犬はドラフト会議で球団からピックされた高校生球児のように頬を赤らめながら喜び浮き足立つものと思っていた。

なのになんだこの現実は!
犬の名を呼んでもこない。むしろ、こっちをチラッと見て、確実に私の呼んだ声は「聞こえました。届いているぞ。」いう意思表示を見せた上で、全く動こうとしない。ヤツが撫でてほしい時だけ近づいてくる。
まるで犬なのに、猫のような犬とは不思議なものである。

この犬の術中に私はまんまとハマった。
パチンコは殆どが外れるがたまに当たる。そのギャンブル性にもっと当たれと人は思い、そしてギャンブルにハマっていくと聞く。
我が家の犬の戦法も同じである。私が帰宅すると相変わらず吠え散らかし、名を呼んでも来ず、私から撫でようとすれば、スルリと何処かへ逃げていく。
しかし、気が向くとなると犬は自ら私の方へと寄ってくる。撫でてくれと尻尾を振るわけではない。私が座るソファの横にやってきて、私に対して背を向ける。ちょこんとヤツも座る。何を言うわけでもなくただ背を向けてくる。これは「撫でろ。」という沈黙の上での確かな命令なのだ。
この瞬間、悔しいかな、私はたまらなく喜びに包まれる。「犬の癖に妙なテクニックを使いやがる」とやっかみながらも、頬は緩み、手は確実に犬の毛並みに沿ってゆっくりと撫でてしまう。

私はハッと思った。人間界においてこのテクニックはモテる基本原則なのではないかと。がっつく童貞よりも、クールなのにどこか茶目っけを思わせる男の方がモテる。女にしても同様であろう。かまってと繰り返し尻尾を振るよりも、たまにのほうが心をくすぐられるのである。8割の放置と2割の褒美。しかも、その褒美は偶発的に犬の気分で与えられるが故に、主導権は犬にある。人間でこのテクニックを駆使する奴はモテるに決まっている。

この犬は分かってやっているのか、天然でやっているのかは分からない。
しかし確実に言えるのはなんと恐ろしい雌犬なのだろう。

そう思いながら私は、彼女が私の横にゆっくりと来るのを願いながらじっと待っているのである。

文章練習5 散歩の話

うららかな春の太陽が、無味乾燥なアスファルトを照らしつけ、陰鬱な冬とは打って変わって、町の様相もいくらか陽気に変わった気がします。

不要不急の外出は避けるようにと注意喚起がなされるこの頃ですが、私は濃厚接触をする相手もいなければ、相変わらずお金もないから、商業施設のような密室空間に足を運ぶこともまあ、ありません。しかし、暇なもんですから、桜でも眺めようと独り散歩に出かけました。いくらかのストレスを散歩の道中に、まるでヘンゼルとグレーテルのパンくずのように捨ててやろうといった算段です。

 

家を出てしばらく歩くと何かに気が付く。

スマホを忘れた。

まぁ、忘れたからといって冷や汗をかき、手が震えるほどスマホ依存ではありませんが。スマホは便利なものですから、つい度々見てしまいます。電車に乗れば、私を含めほとんどの人がスマホを見ています。あれ、スマホがなかった時代の人がタイムスリップして、その様を目撃したらと想像すると、驚くを超え、恐ろしそうですね。

スマホを忘れたからといって、取りに戻るのも面倒なので、散歩続行といきました。

 

京福電鉄の通称「嵐電車折駅を少し歩くと、JR嵯峨嵐山駅まで一直線に続く「昭和通り」があります。その名の理由は分かりませんが、都市開発が頻繁に起きる都市部とは打って変わって、このあたりは住宅街と個人商店が多く立ち並ぶ地域ですので、どこか昭和な香りがまだ残る。その昭和通りで昭和の残り香を感じ取りながら、嵐山へと向かうのでした。

 

ただ意味もなくぶらぶらと歩きながら、あちらへこちらへと目を向ける。咲き乱れた桜、スーパー帰りのおばさんが乗る自転車の前かごから、今にも落ちそうな長ネギ。子供たちの嬌声と共に、小さな影が私のひざ下あたりを通り過ぎる。春の風が背中を優しく押してくれ、一歩一歩を陽気に、弾むように歩かせてくれる。視線を上にあげると、何羽かの小鳥たちが電線の上で羽を休めて、井戸端会議を開いている。今は閉店したタバコ屋の少し錆びた看板に書かれた文字は、時代を感じるフォントをしている。この看板がまだ新しかった時、この通りの風景はどんな様子であったのだろうか。

そうこうしているうちに、川の流れる音と共に、山紫水明、松の木の奥から覗く明媚な嵐山と、川に架かる渡月橋の美しいこと。

対岸に位置する亀山公園は、川を眺めるように桜並木が続いており、この時期にしか感じられない嵐山の格別の春容を私に届けてくれた。

スマホを忘れ、腕時計もつけていませんので、何分散歩をしていたかわかりませんが、私にとってその散歩の時間は日常から切り離された、豊かな時間でありました。

 

スマホのサイズなんて精々文庫本程度の大きさで、いかにその中に世界へとつながるネットワークがあろうとも、現実世界の美しさと対比するには余りにもしょぼい。

「書を捨てよ、町へでよう」なんて言葉がありますが、「現代はスマホを置いて、外を観よ。」そう感じる。

この不要不急の散歩は特別ではないはずの日常生活で体験した、特別な時間でした。

 

 

文章練習4 読書について

 

古代、狩りをし生きていた頃に求められた思考と知識量は、今日私たちに求められるそれらと比べれば、何倍も平易であったろう。私たちがいま生きるにあたって考える領域は幅広く、自身の思考と村の長老から口伝された程度の知識量じゃ太刀打ちできない。

だから、幼少期から学校に通い、教育を受ける。しかし、教育も良質なモノが中にはあるとは言え、先生から教えられる受動的なものであり、また、社会人になれば「授業を受ける」機会がめっきり減る。だから、読書をして能動的に学び、知識を取り入れ、常に血液のように体内で循環させ、必要とあらばそれを知恵として出力することが、今を生きる上で大切だと考える。

 

読書をすることで、未知の領域に足を広げられる。そして、知識は点と点で繋がり、思わぬ時に役にたつ。いくつかの読書論を読んでみると、「濫読するよりも、僅かな本の内容を深く知る方が良い」と漏れなく書かれている。しかし、この文言は恐らく、濫読を経て、いくつかの本にハマり、その内容を骨の髄まで味わった上で著者が行き着いた見解だろう。つまり誰しもが濫読の道を通って然るべきだ。

 

読書は脳の筋トレにと呼べる気がする。本のジャンルは筋トレ器具、本の内容はウェイトといったところだろうか。自分の持ち上げられる重さで、鍛えたい箇所を選ぶのと同様で、読書も読める内容、読みたいジャンルから読んでいくことをおすすめする。次第に鍛えられ、内容の難しい本へと手を伸ばせられる日がいつかくるだろう。

しかし、読書をしすぎる。あるいは読書に頼りすぎるのもどうやら良くないらしい。

ショウペンハウアーの「読書について」から引用すると

「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失っていく」

こう述べている。なんだか、読書嫌いが読書をしなくていい大義名分を得たと勘違いしそうな言葉だ。実際は「本を読むな」と言っている訳ではなく、一旦自分で思案、思索して行き詰ったら良書を開けと言っている。そういった内容を書いた上で、良書として語り継がれているのを鑑みるとショウペンハウアーだ。

 

車輪の再発明」という言葉をご存じだろうか?「誰かがすでに生み出した何かを自分で生み出そうとして無駄にすること」とCambridgeの辞書では解説されている。

思考に関しては、ショウペンハウアーは著作でこれを無駄ではない、むしろ大事だと述べている。自らの思考の末に出た結論が誰かによって既に考え出され、発表されていたとしても、自らの思考で生み出したことに価値があると。

 

人類は思考とそれによって得た知恵を持って、他の動物を出し抜き、食物連鎖の頂点に立った。今日では、それは対他種動物間の争いを超え、人間同士でもこの複雑で、技術発展と高度に情報化した社会というリングで繰り広げられている。

読書はあなたを守る心強い盾であり、剣であろう。人生を豊かにするパートナーでもあろう。人は学び成長してこそ、人ではないだろうか。自らの思考をベースに、偉人の思考を良書から少々拝借し、混ぜ合わせ、自分だけの思考のカクテルを作る楽しみ。

それが読書なのだ。

 

 

文章練習3 日本の美、西洋の美について

桜の季節が訪れました。桜はやはり、いいものですね。大きく枝を広げ、花をつけるその姿はまさに荘厳で、桜の花が舞うように咲き誇るのを見ると、辛く陰鬱と過ごした冬の思いは消えていくように感じます。

桜を見て思うのはやはり、すぐに散る、その儚い短命さ。四六時中、年がら年中桜が咲き乱れていたら、桜に対する思いもここまでではなかったような気もするわけであります。花火にも言えることですが、日本文化において儚さ、短命さといった所謂「もののあはれ」しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁を基軸に発展してきたように思えます。日本人は「志半ばでの死」「非業の死」に弱い。付け加えると、完全に負けるとわかっているのに戦う話に弱い。

物語にしても、世界最強の主人公が悪をバンバンと倒していくストーリーよりも、古来日本人は平家に同情したり、赤穂浪士新撰組、神風特攻隊のストーリーに心打たれてきました。

日本人の意識として、コンセプチュアルな美の基礎は、目的を果たせない中での死、あるいは天命を全うせずに死ぬ。生に対する美よりも、死に対する美を追う習性がどこかある。桜や花火も似たなにかを感じる次第です。

一方、西洋特にアメリカでは「志半ばでの死」よりも、サクセスストーリーが専ら好まれます。アメコミヒーローにしてもそうですし、現実だとサンフランシスコのゴールドラッシュや、実業家の成功談などでしょうか。歴史が浅く、また成功を夢見てアメリカの地を踏んだ移民たちの国ですので、当然と言えば当然なんでしょうか。

西洋のヨーロッパ側でもやはり、生への美が重んじられます。シェイクスピアの悲劇などは「志半ばでの死」はありますが、裏切りや謀略による怒りを伴った悲劇として、広く人気を博している気がします。

庭や建築物に目を向けても同様に、西洋文化ではこの「朽ちていくこと」「消えていくこと」に美学を見出しているように感じません。日本的な自然と共存といった考え方はなく、左右対称な建物や庭などから、どちらかといえば、西洋文化においてのコンセプチュアルな美とは人の手によって支配されるべき成功と繁栄。つまりは生における美の概念という印象を受けます。

 

この日本と西洋文化における差は、地震津波、火事といった災害的要因の有無と、資源の差が大きく起因していると思われます。

日本は災害大国なのはご存知のことでしょう。インフラと災害対策技術が成長した現代と比べ、昔の日本は間違いなく、災害の度に今とは比較にならないほどのダメージを受けてきたのは想像しやすい。建てたと思えば地震で崩れ、川の氾濫で流され、石材が乏しい上に、気候に適していないので、それじゃあと木材を用いれば、頻繁に焼失しと何度も失ってきた過去は資料を見れば明らかです。その繰り返される歴史と仏教思想の影響で、美しいモノはいずれ朽ちる。自然を支配するのではなく、共に生き、そして朽ちる。そういった観念が醸成されたのではないでしょうか。

西洋はヨーロッパではそのような、災害の想定をさほど気にする必要はありません。

また、大陸地域であるが故、侵略し、侵略されの歴史を繰り返しています。そのたびに過去の権力者達は、自身の威光と権威性を世に認めさせるために、神からの授かった力だと説得し、民を支配するため、その手段と贅を尽くしたい思いが相まって、壮大な建築物や、庭をつくってきた歴史があるのではと考察します。

その繁栄と力への思いが、自然への支配と永遠性を求めたのでしょう。

ダイヤモンドを見るたびに、桜との対称性を感じます。「ダイヤモンドは永遠」そんなキャッチフレーズがありますが、キラキラと妖艶な光を反射させ、朽ちることないダイヤモンドは西洋文化が追い求めたモノの最終目標に思えます。

儚く消える桜の美しさ、永遠に輝くダイヤモンド。どちらも魅力的ではありますが、日本人としてのアイデンティティーを感じる瞬間はやはり、桜に思いが惹かれることです。

物質なら甲乙つけがたい話ですが、人となるとそうではない。生への美を追いすぎるのは美しくないと思います。美魔女のようにかつての美にいくら執着しても時の流れには逆らえず、おばさんになっていくのは明らかなように、かつての栄光や力に取り憑かれたその姿に、西洋的なコンセプチュアルな美も、日本的な概念も見出せません。

人はやはり自然には逆らえないのです。西洋文化の美の支配も結局のところ、物質を支配できただけに過ぎず、その欲求はやはり権力者たちの生への美に執着した結果がもたらした歴史なのです。最近の日本は、欧米化の波をもろに受けて、日本の文化的アプローチを精神面で行う人が減った気がします。私自身も体現できているとは思いません。

そこを鑑みると、日本の再興は、日本文化の再考から始まる気もしなくはない。

グダグダと愛国談議に花を咲かせてしまいましたが、私は西洋文化ももちろん好みますよ。

しかし、精神面においては日本文化のアプローチが日本人の私の胸に響くのでした。

文章練習2 コロナウイルスと安心

2019年末、中国は武漢で始まった新型コロナウイルス。正式名称COVID-19は次の十年に向けた、2010年代最後の置き土産あるいはイタチの最後っ屁なのだろうか。

いま世界は2020年代に突入し、4ヶ月が経とうとしているが、晴れ晴れとした新たな10年間の幕開けとは全く呼べない。経済活動は停止し、オリンピックを含む各種イベントは延期、国民は家にいるよう指示された。世界は恐怖と不安とウイルスがそこかしこに蔓延している。ほんの少し前、「ワンチーム」が流行語になったので、今回のコロナではてっきり、人々は互いに身を寄せ合い、支えあうかと思っていたが、他人への心配よりも自分のケツの穴を優先し、トイレットペーパーをボールに見立て、レジまでトライと言わんばかりに奮闘している。

無症状患者が外出すれば、故意の有無に関係なく感染を広めるため人々は距離を置き、僕を含め、明日は我が身かと恐れている。

安心なんてほど遠い。ふと、安心とはなにかと辞書を引く。

安心とは「気にかかることがなく心が落ち着いていること。またはそのさま。」

「仏法の功徳によって、迷いがなくなった安らぎの境地」とある。つまりは我々が普段口にする「安心」とはいわば、ジェットコースターが真っ逆さまに滑り落ち、次の高所へ向かう間の、ほんの束の間の時間であり、人生において辞書の意味する本当の「安心」を得られる日など、釈迦にでもならぬ限りは訪れない。そう断言されたような気がする。

釈迦の悟りの境地は、端的に言えば「苦楽どんなことであろうとも動じない」

楽しかろうが、苦しかろうが同じ感情でいることなのかと想像する。それは、とてもたどり着けそうもない立派な境地だと思う反面、その状態は人間なんだろうかと疑問にも思う。人生とは何かを論じたい訳ではないが、楽しいこと、苦しいこと、それらを全身に受け止め、笑みや涙をこぼすほうが美しく思えるのは、私だけだろうか?

いつでもポジティブな人間などいないし、いたらそれは阿呆だろう。

ネガティブなのもよくはない。要は適当こそが適当ではあるが、中道でありながらも少しばかり悲観的な方が人生の危機に上手く対処できると今のところ思っている。

今後の経済も、私の人生も先行きは不安だ。不安だからといって、沈み行く船に乗船していたとしても、ただ茫然として眺めるだけで何もせず、船と共に沈むのだけは避けたい。船から抜け出すことを考え、抜け出せた後には沈まない船に乗船するか、二度と船に乗らぬようにしようと考えるだろう。その行動は「気にかかることがなく心が落ち着いていること」つまりは安心を追い求めての行動他ならない。しかし、先に述べたように「安心」を得るに至るまでは苦難の連続であろう。安心を追い求める道中の苦楽に、一喜一憂を全身全霊で味わい、安心を追い求めれば、いつかは死ぬ。これでいいんじゃなかろうか。これこそ人間らしい、愚かな、それでいて美しい姿だと私は考える。

安心を追うことに執着し、あらゆる苦難に打ちひしがれ、なにもかもを捨て去り、追うことを諦めたその先は、苦しいことも、楽しいことも何が起きても動じない、クールでいて、それでいて空虚な人間らしくない姿があるのではないか。その境地を人は悟りと呼び、その状態を安心と呼ぶのではないのだろうか。

人間は動物的本能と、人間的理性が混在し生きている。従って、人間を離れる。人間を超越するとは、動物でいるか、悟りを開いた超人でいるかそのどちらかだろうか?

今の意見を表明すると、私は動物側でありたい。私は愚かなサルがいい。