Apes 凡論

文章練習をオフラインでやるより、公開していこうと思い立ち始めました。なので、感想、ご指摘など遠慮なく。

文章練習4 読書について

 

古代、狩りをし生きていた頃に求められた思考と知識量は、今日私たちに求められるそれらと比べれば、何倍も平易であったろう。私たちがいま生きるにあたって考える領域は幅広く、自身の思考と村の長老から口伝された程度の知識量じゃ太刀打ちできない。

だから、幼少期から学校に通い、教育を受ける。しかし、教育も良質なモノが中にはあるとは言え、先生から教えられる受動的なものであり、また、社会人になれば「授業を受ける」機会がめっきり減る。だから、読書をして能動的に学び、知識を取り入れ、常に血液のように体内で循環させ、必要とあらばそれを知恵として出力することが、今を生きる上で大切だと考える。

 

読書をすることで、未知の領域に足を広げられる。そして、知識は点と点で繋がり、思わぬ時に役にたつ。いくつかの読書論を読んでみると、「濫読するよりも、僅かな本の内容を深く知る方が良い」と漏れなく書かれている。しかし、この文言は恐らく、濫読を経て、いくつかの本にハマり、その内容を骨の髄まで味わった上で著者が行き着いた見解だろう。つまり誰しもが濫読の道を通って然るべきだ。

 

読書は脳の筋トレにと呼べる気がする。本のジャンルは筋トレ器具、本の内容はウェイトといったところだろうか。自分の持ち上げられる重さで、鍛えたい箇所を選ぶのと同様で、読書も読める内容、読みたいジャンルから読んでいくことをおすすめする。次第に鍛えられ、内容の難しい本へと手を伸ばせられる日がいつかくるだろう。

しかし、読書をしすぎる。あるいは読書に頼りすぎるのもどうやら良くないらしい。

ショウペンハウアーの「読書について」から引用すると

「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失っていく」

こう述べている。なんだか、読書嫌いが読書をしなくていい大義名分を得たと勘違いしそうな言葉だ。実際は「本を読むな」と言っている訳ではなく、一旦自分で思案、思索して行き詰ったら良書を開けと言っている。そういった内容を書いた上で、良書として語り継がれているのを鑑みるとショウペンハウアーだ。

 

車輪の再発明」という言葉をご存じだろうか?「誰かがすでに生み出した何かを自分で生み出そうとして無駄にすること」とCambridgeの辞書では解説されている。

思考に関しては、ショウペンハウアーは著作でこれを無駄ではない、むしろ大事だと述べている。自らの思考の末に出た結論が誰かによって既に考え出され、発表されていたとしても、自らの思考で生み出したことに価値があると。

 

人類は思考とそれによって得た知恵を持って、他の動物を出し抜き、食物連鎖の頂点に立った。今日では、それは対他種動物間の争いを超え、人間同士でもこの複雑で、技術発展と高度に情報化した社会というリングで繰り広げられている。

読書はあなたを守る心強い盾であり、剣であろう。人生を豊かにするパートナーでもあろう。人は学び成長してこそ、人ではないだろうか。自らの思考をベースに、偉人の思考を良書から少々拝借し、混ぜ合わせ、自分だけの思考のカクテルを作る楽しみ。

それが読書なのだ。